【雑記】伊藤計劃のすゝめ
フィリップです。
近所の書店の所謂【オススメ本棚】に水物臭のするケバケバしいラノベ紛いの文庫ばかり並んでいることに失望した反動で、伊藤計劃のアーカイヴ2冊を購入しました。彼の思想には長らく触れているつもりなんですが、何処か飽きない部分があるんですかね。
・中途半端な感想文
内容としては、伊藤の運営していたブログ「伊藤計劃:第弐位相」を軸とした小説以外での文章をまとめ上げたもの。彼の生きた軌跡ってやつですな。
伊藤計劃:第弐位相(リンクはポータルで残してあるいわば墓標)
まだⅠを半分読み進めた程度なんですが、そんな状態でも感想文なるものが書けてしまうのは、読んでいると本人が側で喋っているのかと思うほど彼の思考が頭の中に飛び込んで来るからです。まあ普段、というか彼の小説から彼の思想を読み取るのは、これに比べると幾つかの段階が必要な点でとても面倒ではあります。
伊藤の描く世界は『思想を伝える』という目的ただそれだけに於いては、少々非効率的と言わざるを得ないでしょう。というより色々な思考が雁字搦めになっていて(そういう分裂思考っぽいところはディックやなあ)一つ一つを整理しづらいという印象ですね。あとやっぱり多少はSFに慣れておかないと、事象のみで思想を読み解くことがつらいです。小説なのでその面倒くささが良いんですけどね。
『ハーモニー』に関してはそれがかなり顕著でしょう。プログラミング言語風の感情表現や思考の整理だったり(僕はこういった小説ならではの趣向大好きなんですけどね)、現実に置き換えるとSF特有の臭みが出てくる描写をサラッとしてしまうあたり。【列車の乗客皆が皆中肉中背】って想像つきますでしょうか。設定こそ取っ付きやすいかと思いますが、それをその先の想像し難い大きな事象へのファクターとして用いるのに、オタクはなんとなく肌に合わない感じを覚えるかもしれません。
そういった表現物に比べて、思考の垂れ流しであるブログはどうでしょう。彼の思想が凝縮されていることは言わずもがな、結果的に伊藤を死に至らしめる病については、軽快な文体にも関わらず切迫感というか、半ば諦念に近いもの(言うまでもなく伊藤計劃は生きることを諦めたりはしなかったでしょうが)をなんとなく感じました。まあそれも『彼が既に死人である』という、時間軸が違うが故に生まれるファクターが、大いに僕の視覚にカラーフィルムを被せているからでしょうけど。
しかし先に表記した『諦念』といった感じがどうしても拭えないのは、彼がいよいよ病状が悪化に向かいつつあるという時に、『屍者の帝国』を企画していたという事実があるからです。否、それは諦念というより、やはり彼の『世界への冷静な眼差し』は死を目の前にしてもぶれることはなかったという、堅固な証明でしょう。
伊藤計劃という人間は実に様々な媒体で、世界に落ち着いた分析眼を向けていました。映画やゲームにアニメ、サイバーパンクに小島秀夫、押井守。そしてまた、彼自身の著作。『虐殺器官』と『ハーモニー』は、読んで頂くとそれがありありと感じられますが、まさにその分析眼の権化でしょう。『屍者の帝国』もとても魅力的な作品でありますが、これは単純なエンターテインメントとしての物語であって、世界へのアプローチを試みたものではないでしょう。だからこそ、円城塔の介在がすんなりといったのだとも思います。逆に大探偵の助手と米国大統領とゴツい元軍人とフランケンシュタインとゴーレム(ハダリーたん)というあの奇っ怪な一行が、何か思想や啓発を表現する為に生まれてきたのだとすれば、それは果てしなく伊藤計劃ないし円城塔のポテンシャル(伊藤に関しては既に失われたポテンシャルでありますが)を拡張するものでしょう。
・なんかそこから派生した思考
こまごまとした設定・世界観は残念ながら、自己啓発をするにあたっては著しく、それを阻害するツールでしょうね(僕はオタクなので凝った設定それ自体は好きです)。まあ『自己啓発』といった目的に沿って設計された設定・世界観であればそんなこともないんでしょうが、伊藤が本書で指摘するように、言ってみればそういった『意味のある背景』は触れていてとても心地いいものです。
例えば『Angel Beats!』は設定が分かり易い分、その裏に隠れる意図も汲み取りやすいかと思います(まだ触れたことのない方は是非)。
死なないと思われていた死後の世界で、死と似た現象が発見される。しかもそれが生前やり残したことを達成することで発生するとなれば、キャラクター(ひいてはだーまえ達)の人生観、死生観がモロに垣間見れるわけです。まあ皆さんあの世界に留まることはしなかった訳ですが、音無くんが最後の最後に価値観の多様性を見せつけてくれました。これでこそ群像劇やで、って具合に。ああいかんいかん、これじゃ愛を語るただのオタクトーク。
ようするに『意味のある背景』というのは、文字通りその存在に目的があるということです。逆に何の目的もない、伊藤風に言えば『物語と分離可能な世界観』は、確かに感じる魅力も半減ですね。逆に『それ同じ路線で学園ものやっても一緒やん』とか感じてしまうフィクションが『意味のない背景』となるわけです。
しかし設定から入って、そこから世界へのアプローチ、啓発を試みる巧みな作品も中にはある訳で、僕はそういったものの一つに『ソードアート・オンライン』を挙げます。
VR(ヴァーチャル・リアリティ)内で生まれた愛が現実の愛に昇華されていき、VR内で勝ち取った強さが現実での強さに体現されていく。ハーレムものなのでどうしても水物に見えがちですが、やはりVRと現実が段々と融和していく様は、現代と地続きになった一種の未来を垣間見ているようで知的好奇心を擽られるものがありますね。ここは素直なSF感がありありと伝わってきます。
フェアリィダンス編はALOが完全にあの変態の牙城だったり妹萌えに媚びてたりしてあんまり好きじゃないんですが、ファントムバレット編とマザーズロザリオ編は(シノンとユウキが単に好きということもあり)大いに評価できましょう(何様だ)。
PB編は殺人ギルドの抱える歪な価値観だったり、シノンの成長ストーリーだったりでもう。たまらん。踏んでくれシノン。ジト目で見下ろしてくれシノン。失礼。しかし殺人ギルドの受け入れ難い信念の紹介という点では、アインクラッド編における茅場晶彦のそれと重なる部分がありましょう。非常識性を人の中に組込んだ途端人々はそれを忌避しがちですが、決してすべての要素に於いてマジョリティである人間はいないのではないかと思います。故に人を特異性だけで人格まで判断するのは大いに間違いじゃないかと。
MR編はまさに『SAO』の核となるストーリーだと思っています。VRと現実の境が曖昧になっていくアスナ達の身の回りに反して、現実が閉ざされVRでのみ健常者であることを赦されるユウキ達。改めて現代社会への挿入物としてのVRの存在意義であったり、ダイレクトにスリーピングナイツの死生観だったりが綴られていて、非常に内容が詰まっています。あとやっぱり単純にお涙頂戴な脚本なので、涙腺の弱い僕としては推さざるを得ない。
しかしこの『SAO』にもやはり、組み立て方こそ真逆なれど、この設定でなければ語れない部分というのが大きいからこそ、多くの人々を惹き付けるものだと思います。まさに『意味のある背景』です。
…という記事の書きかけを、実はつい先日見つけまして、「何故自分は伊藤計劃でAB!やらSAOやらを語ってるんだ…」と我ながら自分のオタクとしての気持ち悪さを自認しました。や、全然書いてあることを自分で否定はしないしできないんですが、まあ気持ち悪い。
そろそろ映画『屍者の帝国』が公開ですね。旬な話題なので、取り留めも無い文章ですが上げておこうかと。
自分は今年度大学受験を控えているので恐らくリアルタイムで観ることは無いと思いますが、観た方はTwitter@phillip_pokeにでも感想を語って頂けたら嬉しいです。
『屍者の帝国』だけでなく『虐殺器官』も『ハーモニー』も立て続けに銀幕で公開されるわけですが、自分がここでどうか皆さんにお願いしたいのが、小説であれ映画であれ伊藤作品に触れる際に「考えること」を怠らないことです。
勿論何も考えずに楽しめる作品もそれはそれで良いものですが、こういったものを通して伊藤計劃に触れるとなれば、頭を使わないのは大損です。特に『屍者の帝国』は、先に貼った下書きにあるように彼が病状を悪くして尚制作に取りかかった作品なのですから、彼がどのようなことを思ってこれを作り始めたのか、続きを任された円城はどんな気持ちでこれを書いたのか、そういったことを考えながら観て(読んで)欲しいですね。
観た(読んだ)方はこちらもどうぞ。
今回はここまで。読んでくださった方ありがとうございました!