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【雑記】サーヴァントのありようについて


フィリップです。

「受験勉強の息抜きに」と書いていたら雑記ばかり増えていく当ブログでありますが、本記事は特に自己満足的な要素が強いので、その点ご了承を。


今回はTYPE-MOONの『Fate』シリーズにおけるサーヴァントについて。

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エロゲ原作にも関わらずファンを膨大に抱える本作は自分も大好きで、この既存の設定・キャラクターをそのまま持ち出した、普段しないはずのスマホゲームである『Fate/Grand Order』もプレイしてしまっている程なのですが、この時代を先駆せんとする形態を持った『Fate』が、改めてサーヴァントの存在について強く考えさせるきっかけを自分に与えてくれました。

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『Grand Order』において、サーヴァントはカルデアの英霊召喚システム「フェイト」によって召喚できるものであり、聖杯戦争における英霊召喚の際に立ち現れるいくつかの制約からは離れたものになっています。例えば『stay night』では、召喚する英霊を指定したい場合にはその英霊と縁のある触媒を用意する必要があります。触媒を用意しない場合はそのマスターの性格に似た人柄を持ったサーヴァントが召喚され、またアサシンのみはクラス自体が触媒となり、そのまま英霊イスラーム教アサシン派の祖・ハサン一族に限定することができる、という設定です。

比して『Grand Order』においてはそういった制約が見受けられず、敵としてストーリーに登場するサーヴァントも多数存在することからも、聖杯も自らサーヴァントを召喚していると考えるのが妥当かと思われます。

とまあ設定の話はそこまで関係ないのでこの辺にしときましょう。というかいくらでも話せてしまうのでやめないとオタクを余計に露呈させるだけだ。自傷行為。ンア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙


本題:人間とサーヴァントの違い


勿論魔力の供給が無いとお通夜だったり霊体化できたりといった設定上の違いはありますが、一つ興味深いのは英霊とサーヴァントは同一とは限らないということです。

どういうことかと言うと、自分のかつてのツイートがその説明に該当してました。




例えば、『Grand Order』の第一章オルレアンをクリアした方なら分かるかと思いますが、英霊エリザベート=バートリーと英霊カーミラは史実上同一人物かもしれませんが、サーヴァントとして現界するに当たってクラスに定着させる人格は、その英霊の人格の一側面にしかなり得ないということです。これは聖杯戦争という儀式の不完全さ(つまり英霊そのものを現界させることはできないという欠陥)にも関わることですが、そもそもこの2人の例だと、英霊という定義にも触れることができます。というのは、そもそも人類史において英雄、ないしそれに近い畏敬の対象とされ “英雄の座” に招聘された人物の霊を英霊と呼ぶわけですが、この場合、史実として実際に少女の虐殺を行ったエリザベート=バートリーの英霊と、人々が彼女の噂や伝説を元に作り上げた、偶像の殺人鬼・吸血鬼カーミラ英霊が同時に存在しているということです。



英霊の存在が史実に依存しないのは小次郎やロビンフッド、ひいてはアルトリアなどからも判るかと思いますが、サーヴァント・カーミラがその存在自体、エリザベートの未来の残忍な行いを過大に誇張しエリザベート自身に突きつけるようなものであることは、『stay night』のアーチャーが士郎に「借り物の理想を抱くことの愚かさ」を自らの体験を以て説く構図と酷似しているという点で、とても面白く感じられました。単純に時間軸的な差異から「未来の自分がこれから犯す過ちを示唆・警告する」とも取れますが、カーミラのアサシンというクラス故の「殺人鬼」としての人格、エミヤの理想主義者の成れの果てである「贋作者」としての人格を増幅された自分自身、歪んだ鏡を見つめているということになかろうかと。


もう一つ解りやすい例として、『stay night[UBW]』のufotable版リメイクで、今回より強調されたセイバーの視点が挙がります。まだ英霊が生存している特異なサーヴァントにも関わらず、自らの人生を「少女の物語」と称して士郎のもとを去る彼女は、騎士王としてしか存在できないセイバーのサーヴァントとして、一介の少女であるアルトリア=ペンドラゴンも内包した自らの人生を俯瞰し、聖杯へかける願いを喜んで諦めました。

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実はこの記事を書くに至った経緯が、自分の妄想で都合よくキャラを改変させてしまうことについて、特にサーヴァントをその対象にしてしまうことに悩み気味だったある方がいまして、「サーヴァントは元々人の望む形をしたものなんだよ」と声を掛ける際に引き合いに出した思考がこれだったのです。あまりに思考が溢れてくるので「これは記事に昇華しないと勿体無いのでは?」という自分可愛さに書き始めました。

その点アルトリアは、まだ年端もいかない少女であったにも関わらず、周囲から騎士王として期待され続け、その聖剣を湖に捨てさせるまで、その期待された通りの偶像に徹し続けたその生き様そのものが、英霊とサーヴァントの相違点をよく象徴していると思います。まあ叙事詩の登場人物なので、現実世界を含めれば、彼女は現代にまでひたすら期待され続ける存在でしかないのですが。


人も同じように、人格には大抵複数の側面(=サーヴァント、及びそのクラス)があり、その全てを内包した形で一つの人格(=英霊)が立ち現れてくるものであります。明るい反面卑屈だったり、冷たいと思っていた人が存外優しかったりとか。人間との違いは、英霊は人々の期待、尊敬の上に成り立っているところで、人間は必ずしも期待などされていなくても、存在の価値はもっと別のところにある。あまり生命至上主義は好きではないですが、やはり生きているだけで人には尊ばれる資格は存在します。死してなお尊ばれる人間は英霊にこそなれましょうが、皆が皆英雄になれるわけではない。


英雄は言い換えてみれば、群衆への生贄のようなもので、ジャンヌ=ダルクはその生贄の文字の通り火刑に処されました。ジルが病んでしまったのは、彼女への過剰な期待もあったでしょうが、やはりその群衆の残酷さに絶望したからではないでしょうか。

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群衆はその時代に合わせて共通認識を変えていき、それを正義だの民意だのと称して、それに則った行動を正当化しようとします。残酷というか恐ろしいのは、その行動に際して、群衆は基礎的な倫理観を放棄できる点で、例えば現代日本にも残る「極刑」は、本来犯してはならないとされる「殺人」を、法的正義を用いて正当化しています。ジャンヌも、自らの正義に則った行動が、群衆の正義にひねり潰されてしまったということです。後に宗教の変遷、歴史的解釈の変化もあって彼女は聖女となりましたが、やはりこの大きな時間差で異端者を英雄にまで擁立させてしまうような群衆の身勝手さは、現代になっても自覚されることはまだまだ少ない。


英雄は我々畜群にしてみれば憧れの存在で、習うべき手本であったりするわけですが、英雄自身は生身である限り、その群衆の空気を一身で体現しなければならず、またその群衆の期待にも添えなければならない。この期待から外れてしまった英雄はひたすら群衆の攻撃に遭い、追放されます。それは祖国からかもしれないし、この世からかもしれない。


英霊はその人々の “期待” の軌跡です。その歪みっぷりであったりを見ることで、かつての群衆の愚かさを垣間見ることもできましょうが、それを見て我々現代の群衆が「人の振り見て我が振り直せ」でないのはそれこそ愚かであると感じます。相手も人ですから、期待しすぎないように。


今回はここまで。今までになく好き勝手な記事でしたが、読んで下さった方ありがとうございました!